2019年04月09日

No 5083   【「ねばならない」を捨て、「いいかげん」を取り入れる】

IMG_3488.JPG

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【「ねばならない」を捨て、「いいかげん」を取り入れる】

精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…


まじめなことが悪いのではない。
几帳面であること、ミスや失敗に注意深く対処することは、むしろその人の長所ともなりえるものだろう。
また、まじめで几帳面な性格だからといって、ミスや失敗を気にするからといって、すぐに「心が疲れやすくなる」ともかぎらない。

問題なのは「まじめ」が「がんこ」に、「几帳面」が「潔癖症」に、「ミスや失敗を気にする」が「悲観的」にまでエスカレートしてしまうところだ。
なぜエスカレートするのかといえば、「ねばならない」という意識が強すぎるのである。
「まじめでなければならない」「几帳面でなければならない」「ミスや失敗をしてはならない」という意識が、自分に強いプレッシャーをかけていることが少なくない。

このような「ねばならない」という意識は、子供のころからの親のしつけが大きく関与していることは間違いない。
ほとんどの人は、「〇〇しなきゃ、ダメでしょ!」という、母親のかん高い声が耳に残っているはずだ。
この声が下敷きになって、「ねばならない」という意識が必要以上に育ってしまったのかもしれない。

まず捨ててほしいのは、この「ねばならない」という意識だ。
「まじめにやろう」ぐらいで止めておけばいいのだ。
「まじめでなければならない」とまでは考えてはならない。

ある銀行マンが笑いながら、こんなことをいっていた。
毎日朝礼があって上司の訓示があるらしいのだが、その訓示というのが、
「今日は月末だから、目標達成のために気合を入れてがんばろう」。
翌日は「初めよければ、すべてよし。今日は月の初めだ、がんばろう」。
その翌日、「支店長から、がんばってくれと訓示があった。いつにも増してがんばろう」。
また翌日は「いよいよキャンペーンが始まります。がんばって、がんばって、がんばり抜こう」…と。

結局、「毎日が特売日」のようなもので、ひと息いれる暇がない。
余裕やゆとりがなくなっていき、知らず知らずのうちに、心が「がんばらなければならない」という意識に縛られ、みずからにストレスをかけてしまう。
この「ねばならない」という意識を捨てるためにも、「いいかげん」が大切なのだ。
積極的に「いいかげん」を取り入れて、自分の心をもっと遊ばせてやろう。
遊ばせてこそ、心は元気でいられる。

上司からいくらハッパをかけられようと、結局はあなたの心がけ次第だ。
「ねばならない」の人は、みずからストレスをつくり上げているともいえる。
あなた自身が少し努力してみることで、ストレスを「捨てる」こともできるだろう。
そのためにも、「いいかげん」を心がけてほしいのである。

『「捨てる」「思い切る」で人生がラクになる (WIDE SHINSHO 211 (新講社ワイド新書))』

56182399_2174135039333453_8567453637956075520_n.jpg


必要以上に自分を追い立てることを心理学(交流分析)では「ドライバー」という。
たとえばそれは、「努力しなければならない」という強迫観念。
「完全でなければ」「強くければ」「早くしなければ」「もっと喜ばせなければ」…。
「努力」も、「強い」ことも、「早い」ことも、「喜ばせる」ことも、みんな必要で、とても大事な価値観だ。
しかし、それが行き過ぎて、「ねばならない」となったときに、心に負担が生じ、ひどいときには病気になる。

「真剣」なのと、「深刻」であることは違う。
なにごとも、「真剣」にやることは必要だが、それが行き過ぎて「深刻」になってしまってはいけない。

『「ねばならない」を捨て、「いいかげん」を取り入れる』
「いいかげん」は「好(良)い加減」。
何事も、ほどほどのちょうど良い加減をめざしたい
posted by Dr.モーリィー at 07:02| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする

2019年04月08日

No 5082   【日常生活は訓練の場】

IMG_3487.JPG

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【日常生活は訓練の場】

小林正観さんの心に響く言葉より…



日常生活が訓練の場であるならば、私の周りを取り囲んでくれている人が100%全員感謝の対象になるということに気がつきます。
私をイライラさせる人を日常的にずっと乗り越えていって、10年に1回、20年に1回ストレッサー度500を持っている人が現れたときにも、ニコニコして対応できるような許容量・寛容度が700、800、1000の人になっていたとします。

そして、例えば「日当1万円払うから、とにかく3ヵ月間私にストレスを与え続けてください。嫌な人を演じてください」とお金を出して、100人に頼んだとします。
1日1万円の日当で100人ということは1日で100万円。
30日で3000万円。
それが3ヵ月続くと9000万円。
1億近いお金が必要です。

でも私たちは毎日、無料で訓練させてもらっているのです。
そう考えると、今日家へ帰ったら夫に向かってありがとうございます。
妻に向かってありがとうござますと言えるのではないですか。
それから子どもに向かってもありがとうございますと言えますね。
ありがとう、あなたのおかげで随分といろいろなことを学ぶことができました、と。

2ヵ月後か3ヵ月後にストレッサー度のものすごく強い人が現れることがあります。
このような場合、この人の守護霊(「おかげさま」ともいうのですけれど)は、この人の許容量・寛容度を高めなくてはいけないと考えます。
そうすると、その2ヵ月、3ヵ月の間、ただひたすらこの人の許容量・寛容度を高める事件を次から次へと起こします。
そうしないとこの人の許容量・寛容度が高くならないからです。
ですからこうした事件が次から次へと起きたときは、きっとすごいことが起こるんだろうなと思って待ち構えてください。

みなさんはその2ヵ月後、3ヵ月後に起こることが予測できなくて、今この時点で判断してしまうから、日常生活の訓練の段階で頭にきたり、愚痴を言ったりしてしまいます。
でもいずれ、「訓練をさせてもらったおかげで、私はここを乗り越えることができました」、と言うようになっています。
ですから、すごいことが起こるかもしれないと考えて、日常の訓練をやってみてください。

『みんなが味方になる すごい秘密』KADOKAWA

55944881_2172539702826320_2653800987289976832_n.jpg



小林正観さんはこう語る。
『《すべての日常生活は“私”を磨くための砥石(といし)なのです》
私は親子関係や夫婦関係で相談を受けるとき、よく「砥石」という言葉を使います。
砥石とは刃物を磨く石のことです。
魂を磨くための砥石は3つあります。
ひとつは「家族と家庭」。
結婚とは、「夫という名の砥石」「妻という名の砥石」を手に入れたということではないでしょうか。
夫婦という名の共同生活は、食べ物の甘い辛い、気温の暑い寒いなど、一つひとつ折り合いをつけることにほかなりません。
なかなか思い通りにならない子どもも「砥石」です。
次は「仕事」。
どんなときにも怒らない、イライラしないということを求められて魂は磨かれます。
最後に、「他のすべての人間関係、交友関係」。
日常生活のすべてが「“私”を磨くための砥石」なのです。
「怒ってもいい状況」も「怒らせる人」も存在せず、折り合いをつけるべき状況や相手がいるだけ。
それなのに怒って解決する道を自ら選んでしまっているのかもしれません。
私たちはすべての日常生活で、「いかにイライラしないか、笑顔でいられるか」を問われています』 (宇宙も神様もぜんぶ味方につける習慣/宝島社)より

われがこの世に生を受けた目的はただ一つ。
少しでもましな人間になって、あの世にいくこと。
魂を磨き、人格を少しでも高めること。
そして、どれだけ多くの人たちに「あなたがいてくれてよかった」と言ってもらえたか。
まわりの人たちに、どれだけ喜んでもらえたか。

己(おのれ)を磨くために砥石はある。
「日常生活は訓練の場」
魂を磨き、人格を少しでも高めたい
posted by Dr.モーリィー at 06:48| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする

2019年04月07日

No 5079   【どんな人と一緒になっても、どんなことに出くわしてもつぶされない人格をつくる】

IMG_3486.JPG

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【どんな人と一緒になっても、どんなことに出くわしてもつぶされない人格をつくる】

致知出版社、藤尾英昭氏の心に響く言葉より…


我われは遠くから来た。
そして遠くまでいくのだ…。

若年期に出合ったこの言葉をいまも時折思い出し、口ずさむことがある。
ゴーギャンの絵に「我われはどこから来たのか。我われは何者か。我われはどこへ行くのか」と題された作品があるが、これに由来してつくられた言葉なのかもしれない。

太古から今日まで、生命は一貫して二つの原理によって存在している、という。
一つは代謝であり、もう一つはコミュニケーションである。
代謝によってエネルギーをつくる。
コミュニケーションによって新しい生命を生み出す。
この二つの原理によらなければ、あらゆる生命は存在し得ない。

この生命を生命たらしめている二つの原理は、人間の幸福の原理と対をなすように思われる。
即ち、あらゆる面で代謝(出と入)をよくすること、そして物を含めた他者とのコミュニケーションをよくすること。
そこに人間の幸福感は生まれるのだ。
聖賢の教えは、極論すれば、この二つを円滑にするための心得を説いたもの、とも言える。

脳の専門医、林成之氏は、どんな人の脳も三つの本能をもっている、という。

一つは「生きたい」
二つは「知りたい」
三つは「仲間になりたい」

という本能である。
この脳の本能から導き出せる「脳が求める生き方」は一つである。
「世の中に貢献しつつ安定して生きたい」
ということである。
脳の本能を満たして具現するこの生き方は、そのまま人が幸福に生きる道と重なり合う。
そこに大いなる宇宙意志をみる思いがする。

遠くから来た私たちは、宇宙意志のもとに、幸福を求めて遠くまで歩み続けているのかもしれない。
最後に、四十年ハガキ道を伝道してきた坂田道信さんの言葉を紹介する。

「どんな人と一緒になっても、どんなことに出くわしてもつぶされない人格をつくり、幸せに楽しくいられるような人になりたい」
大人の幸福論を説いて、これ以上の言葉ない。

『小さな修養論』致知出版社

56444224_2170974262982864_3474633056474628096_n.jpg



すべての人間は、この世に生を受け、そして、あの世に旅立つ。
その人生の目的は、生まれたときより少しでもましな人間になってあの世に行くこと。
それは、魂を磨き、人格を高めること。

その多くは、人間関係によってつくられる。
つまりこの世には、人間関係を学ぶためにやってくるとも言える。
だからこそ、人間関係は一筋縄ではいかないし、簡単ではないのだ。

「どんな人と一緒になっても、どんなことに出くわしてもつぶされない人格をつくる」
よく学び、よき仲間をつくりたい
posted by Dr.モーリィー at 09:29| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする

2019年04月06日

No 5078   【すべては「好き嫌い」から始まる】

IMG_3485.JPG

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【すべては「好き嫌い」から始まる】

楠木健氏の心に響く言葉より…


僕は競争戦略という分野で仕事をしている。
ありていに言って「競争の中である商売が儲かったり儲からなかったりする論理は何か」を考えるという仕事である。
商売である以上、最終的には「業績」という良し悪し基準に行き着く。
しかし、そこに至る道筋である戦略は、かなりの程度まで好き嫌いの問題だ。

戦略とは、一言で言えば、競合他社との違いをつくるということ。
その時点でみんなが「良い」と思っていることをやるだけでは、他社と同じになってしまい、戦略にはならない。
例えば、「ファストファッション」を提供するZARAと「ライフウェア」を標榜(ひょうぼう)するユニクロ。
同じ業界ではあるが、それぞれに「良い」と考えることが違う。
ZARAにとって良いこと(例えばショートサイクルの多品種少量生産)がユニクロにとっては悪手になる。
逆もまた真なり、だ。
当事者が心底好きで面白いと思っていることを突き詰めた結果としてユニークな戦略が生まれる。
これこそが商売の大原則。
商売の基点になるのは自由意志であり、戦略は経営者による意思表明に等しい。
にもかかわらず、良し悪しの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)は、ビジネスの世界でとりわけ目につく。
本来は自由意志、好き嫌いの次元にあるはずの意思決定や行動が、安易な良し悪し基準で切り捨てられる。
逆に「ベスト・プラクティス」の名の下にいかにも正しいことのように煽(あお)られたりする。

商売に限らず、世の中の9割は好き嫌いで成り立っているのが本当のところだと僕は思う。
巨人か阪神か、ビートルズかストーンズか、レノンかマッカートニーか、天丼かかつ丼(もちろん同じ意味で親子丼でもかまわない)、仕事にしても生活にしても、大半のことがそれとまったく同じ意味で好き嫌いの問題だ。
どちらでもいい。
優劣や上下はない。
好きな方にすればよい。
天丼もかつ丼も親子丼もそれなりに美味しい。
それでも好き嫌いはある。
だから好きなものを選ぶ。
考えてみれば贅沢な話である。
千年まえであれば、好き嫌いどころではなかった。
普通の人々は、生存のために「良い」ことをし、「悪い」ことは排除しなければならなかった。

良し悪し族の難点は、ともすれば教条主義に傾くことにある。
良し悪しを見聞きするものに杓子定規に適用して価値判断をする。
一方の好き嫌いは教養に深く関わっている。
教条と教養、一字違いだが両者は対極にある。


『すべては「好き嫌い」から始まる 仕事を自由にする思考法』文藝春秋

56319138_2169521693128121_8736817938037735424_n.jpg


楠木氏は、本書の中で「無努力主義」についてこう語る。
『僕のこれまでの経験でいえば、「努力しなきゃ…」と思ったことで、仕事として上手くいったことはただの一度もない。
「努力しなきゃ…」と思った時点で、そもそも向いていないのである。
ポイントは、それが「努力」かどうかは当事者の主観的認知の問題だということだ。
だとしたら、「本人がそれを努力だとは思っていない」、この状態に持ち込むしかない…。
これが試行錯誤の末に行き着いた結論である。
すなわち「努力の娯楽化」。
客観的に見れば大変な努力投入を続けている。
しかし当の本人はそれが理屈抜きに好きなので、主観的にはまったく努力だとは思っていない。
これが最強の状態だ。
趣味の世界では誰しも多かれ少なかれ「努力の娯楽化」を経験したことがあるはずだ』

政治でも哲学でも、経済でも経営でも、最後は好き嫌いで決まる。
どんなにそれが正しかろうが、間違っていようが、好き嫌いという感性によってしか人間は動かない。

陽明学の王陽明はそれを、「天下のこと万変といえども、吾がこれに応ずるゆえんは、喜怒哀楽の四者を出でず」と言った。
世界がどのように変わっていこうと、つきつめればすべて、「喜怒哀楽」の四つの感情からしか物事は進まない。
いかに喜び、いかに憤り、いかに哀しみ、いかに楽しむかといことが、人生のすべてだ。

また、日本の森林学の大家で、東京帝国大学で教鞭をとり、独特の蓄財法で財を成した本田静六博士は、「仕事の道楽化」を唱えている。
『人生の最大幸福はその職業の道楽化にある。
富も名誉も美衣美食も、職業道楽の愉快さには遠く及ばない。
職業の道楽化とは、学者のいう職業の芸術化、趣味化、遊戯化、スポーツ化もしくは享楽(きょうらく)化、であって、私はこれを手っ取り早く道楽化と称する。
名人と仰がれる画家、彫刻家、音楽家、作家などが、その職業を苦労としないで、楽しみに道楽としてやっているのと同様に、すべての人がおのおのその職業を、その仕事を道楽にするということである。』(本田静六 成功するために必要なシンプルな話をしよう/知的生き方文庫)より

『すべては「好き嫌い」から始まる』
仕事の道楽化を果たしたい
posted by Dr.モーリィー at 06:51| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする

No 5077   【死んでからも語り継がれるような人】

IMG_3484.JPG

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【死んでからも語り継がれるような人】

春日大社権宮司、岡本彰夫氏の心に響く言葉より…



人は何のために生きているのでしょう?
それは自分の存在を認めてもらうためではないでしょうか。
認めてほしいから一所懸命生きるのです。
働くことで人から自分の存在を認めてもらい、自分自身もその存在を確かめてみたいのです。

おとぎ話で、竜宮城から戻った浦島太郎がなぜあんなにかわいそうな思いをするのかというと、五百年も経ってしまい、浦島太郎を知る人が誰もいなくなってしまったからです。
自分を認める人が一人もいなくなってしまうなんて、これほどつらいことはありません。
人間にとって最大の悲劇は、無視されることです。

いつの日か自分が死んであの世へ行き、魂だけがこの世に帰ってきたとしましょう。
そのとき自分の家族や友人、会社の同僚や部下などすべての人が、自分のことをすっかり忘れてしまい、口にも出さないとしたらどうでしょう?
これほどむなしいことはありません。

仏教に「供養」という言葉がありますね。
神道で供養に相当する言葉は、「とむらう」です。
この語源は「訪(とぶら)ふ」、つまり、「訪問する」ことを意味します。
とはいえ、亡くなった人を訪ねることはできません。
では、どうすればいいのか。
故人を思い出し、故人のことを語り続けるのです。

祖先を大切にするとは、「とぶらふ」こと。
たとえ姿は見えなくても、祖先のことをいつまでも忘れず、語り継ぐ。
亡くなった人の存在を認めることにとむらいの意義があります。

我々は誰でも、いずれはあの世にいかなければなりません。
生きている間は一所懸命働き、まわりの人から自分の存在を認めてもらう。
それが、「自分が生きている証(あかし)」となる。
そして死んでからも語り継がれていけば、こんな幸せな生涯はありません。

『日本人だけが知っている 神様にほめられる生き方』幻冬舎

56119613_2168101993270091_387090975593332736_n.jpg


「人は二度死ぬ」と言われる。
一度目の死は、肉体の死だ。
二度目の死は、まわりから忘れ去られること。
誰かが少しでも覚えていてくれて、時々話題にのぼる間は、人は心の中で生き続ける。

『愛の反対は憎しみではなく、無関心だ』とマザー・テレサは言った。
それはつまり、無視されることであり、忘れ去られること。

どんなときも、いくつになっても、自分のことを認めてほしくて仕方がないのが、人間だ。
だから、自分を認めくれる人が大好きだ。

死んでからも語り継がれるような人でありたい
posted by Dr.モーリィー at 06:36| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする

2019年04月05日

No 5076   毛利歯科開院 25周年記念日!

IMG_3325.jpg

平成元年 4月5日に スタッフ3名と
診療用ユニット2台で 開業してから
本日で 25周年です

昨日は 朝から 墓参りに行き 
ご先祖様に親父に 報告と決意表明を!

その後 県議選の 期日前投票へ

IMG_3315.jpg

IMG_3314.jpg

途中 マリンポートに とんでもなく大きな船が 寄稿しておりました!

IMG_3304.jpg

IMG_3302.jpg

IMG_3303.jpg

IMG_3297.jpg

IMG_3310.jpg

本院待合室用に
新しい 漫画を Book offで 買い求めました

IMG_3327.jpg

IMG_3328.jpg

IMG_3326.jpg

IMG_3329.jpg

posted by Dr.モーリィー at 06:33| ライフワーク | 更新情報をチェックする

No 5075   【素直になれたら】

IMG_3483.JPG

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【素直になれたら】

修養団・元伊勢道場長、中山靖雄氏の心に響く言葉より…


修養団で三泊四日の研修を終えられた最後の日に、「帰ったら弟にごめんなさいってお詫びをしたいと思います」と言ってくださった方がおられました。
「私の弟は耳が聞こえません。
そしてしゃべることができません。
その弟と、おふくろと私と三人暮らしなんです。
親父が早く死んで、私が父親代わりで今まできました。
おふくろや弟を大事にしてやらなきゃいけないってことは、いやというほどわかっていましたが、なかなかできませんでした。
今はおふくろに、『母ちゃんは弟のことが心配なんだろう?俺に安心して任せておきなさい』って言いたい気持ちがしています。
だけど、家に帰っておふくろの顔を見たら、照れくさくてとうていそんなことは言えないような気がします。
ただ今日は家に帰って、弟を一回抱きしめて、言っても聞こえませんが、今までごめんって、お詫びをしたいと思います」

そう言われたのです。
それを聞いて、
「明日の朝、電話を入れるから話を聞かせてね。絶対嘘つきにならんといてね」と言って別れました。
翌日、電話を入れると、私からの電話を待っていてくださったようでした。
「先生、やれました」そうおっしゃいました。
「ただいま」と帰ったら、弟が部屋にいた。
「謝ろう」と思ったのに、なんとなく体が動かない。
お兄ちゃんがいない間は、鬼のいぬ間でのびのびしていた弟も、お兄ちゃんが帰ってくたから、また「やられる」と思ったのでしょう。
気配を察して、弟が慌てて遊び道具を片付けて、外に遊びに出かけようとしたのだそうです。

その時、弟の後ろ姿にだったから言えたのかもしれないけど、「今までゴメンだったね」と言えたというのです。
今まで弟のせいで、自分がいじめられることもあり、心の底では悪いなと思いながらも、やり場のない思いを幼い弟にぶつけてしまっていた。
言葉で抵抗できない、ものを言えない弟をいじめていたのだ、というのです。

それをお母さんはずっと見ていて、知ってはいても、お母さんもお兄ちゃんのつらい気持ちを思うと叱ることもできず、そんな兄を見守るしかなかったという家庭だったといいます。
弟に申し訳なかったと思っている今の気持ちを、なんとかわからせたいと思い、外へ飛び出した弟を追いかけた。
すると、弟が必死に走って逃げだすのです。
「逃げんでもいいぞ」と言っても、弟には聞こえない。
いくつめかの信号でやっと襟首を捕まえたのですが、逃げようとして七転八倒します。

なんとか、今の気持ちをわからせたいと思うけど、どうにもならない。
しかたがないから、襟首をぐっと引きずり寄せて、回れ右させてて、自分の体に押さえつけるように抱き寄せながら、「ごめんね、ごめんね」って、体をさすってみたのだそうです。
もがいていた弟も、いつもならボカボカってやられるのに変だな、と思ったのか、ほっと顔を上げたのだそうです。
その弟のなんとも言えない恐々とした表情を見た瞬間、あふれるものを止めることができなかったといいます。
その流れだす涙が弟の顔にもポトリポトリと当たって、弟にも何かが伝わった。

「先生、あいつが、何をやってくれたと思う?俺の首ったまに、パッとぶら下がって、『あ〜っ』って、声にならん声を一生懸命搾(しぼ)り出そうとするんだ。
もし、ものが言えたら『にいちゃん、こんな嬉しいことはないよ、ありがとう』と言いたいんだろうなって思ったら、もうたまらなくて、みんながいる往来で『ごめんな、ごめんな』の繰り返しでした」とおっしゃいました。
それから一緒に家に帰って、お風呂に入って、ご飯食べて、お母さんが布団を並べて敷いてくれたそうです。
いつもは必ず、布団を離して隅に持っていこうとする弟が、その日は並んだ布団にすぽっと入って、すやすやと寝ている。
「言うても聞こえんし、寝てるし、わからんと思ったけど、布団の上から『今までゴメンだったね、ゴメンだったね』って、もう一度、お詫びをさせてもらいました。
こんな思いが、いつまで続くかわからんけど、精一杯大事にしてやりたいなぁ。
そんな気持ちでいっぱいなんです」とおっしゃいました。

みなさん、いろんな条件があるでしょう。
それぞれの条件の中で、今を喜びに変えながら生きていくこと。
それが、世界を清めていくのです。

さまざまな条件の中、素直になれなかったその方も、初めてその人本来の本性(ほんせい)に立ち戻ったのですね。
そこに気づかなかったら、勝手な思いのままの性(しょう)でいってしまいます。
しかし、どんな人も、出来事を良し悪しにせず、その条件の中で喜びに出会うご縁をいただいているのだと気がつきさえすれば、本性に立ちかえることができるのです。

人の本性はみな優しいのですから。
本性に立ちかえると、自分の心が安らげます。
大きな祈りの中で過ごせるものを、みんな生まれながらにして持っているのです。

『すべては今のためにあったこと』海竜社

55576155_2166635906750033_1020460199187578880_n.jpg


禅の名僧、良寛さんにこんな逸話がある。
『良寛さんに馬之助という甥(おい)っ子がいた。
馬之助があまりに放蕩三昧なので、良寛さんは周囲から、説教をしてくれるように頼まれた。
しかし、何日たっても、良寛さんは何も言わない。
とうとう、四、五日たってしまい、帰ることとなった。
良寛さんが、出かけようと玄関に腰掛けたが、わらじの紐(ひも)がうまく結べず、馬之助に結んでくれるよう頼んだ。
わらじを結んでいる馬之助の首筋に、何か冷たいものが落ちてきた。
びっくりして見上げると、良寛さんの目には大粒の涙があった。
その姿を見て、馬之助はすっかり改心したという』

涙には、言葉以上の真実がある。
あふれ出す涙は、人の心をふるわせる。

涙が出るときは、自分が素直になれたとき。
素直でないときは、人を疑ったり、冷たくしたり、すねたり、意地悪したり、謝れなかったり…。

素直な気持ちになれたら、人にやさしくできる
posted by Dr.モーリィー at 06:17| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする

No 5073   【時間にはお金以上の価値がある】

IMG_3482.JPG

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【時間にはお金以上の価値がある】

江原啓之氏の心に響く言葉より…


たましいにおいて、時間はお金以上の価値があることを知っていますか?
いのちは、お金では買えません。
それは残された時間を見つめて生きている人には、痛いほど理解できていると思います。

だからこそ、時間は大切に扱わなければならないのです。
人との待ち合わせでさえも、相手の現世での時間を費やしてしまうと考えれば、無闇に遅れることもなくなります。

また、いつも人目を気にして悩んだり、くよくよすることも同然です。
取返しのつかないことや、無駄なことに心を煩わせるだけ、人生を無駄にしているのです。
ならば、「生き金、死に金」というお金を有効に使う考え以上に、つねに時間に対しても「生き時間、死に時間」という考えを持つことが大切です。

もちろん、休養も重要です。
それも、何となくダラダラと無計画に一日を過ごすのではなく、「今日は何もしないで、身体を休ませる」と決めて、有効に時間を費やせば、それは「生き時間」となるのです。
このメッセージは、“いのちの時間”を見つめたときに、よく理解できることでしょう。
しかし、その前に気づくべきです。
すると、幸せがより実感できます。

《命は有限。「限りがある」と理解できれば、時間を一分一秒も無駄にはできなくなる。また、遅刻したときは、自分の時間だけではなく、相手の時間をも無駄にしてしまったのだと理解すること》

『あなたにメッセージが届いています』マガジンハウス

55503371_2165175640229393_3624657050102923264_n.jpg


『明日死ぬかのように生きよ。 永遠に生きるかのように学べ』
という、マハトマ・ガンジーの言葉がある。
あたかも、明日死ぬかもしれないと思って、今日、この一瞬を大切に生きる。
そして、たとえ100歳を過ぎたとしても、永遠に生きるかのように、今日、学び続けること。

この一瞬一瞬は、もう二度と返ってこない大切な時間、と頭ではわかっているが、多くの人はそれをムダに使ってしまう。
それは、まだ、何年も生き続けるに決まっている、と漠然と思っているからだ。

遅刻を繰り返す人は、人の時間を奪っているという自覚がない。
そして、待たされた人の気持ちがわからない。

だが、何時までに行かなければ大事な人の命が危険にさらされるとか、10億円の契約がとれなくなってしまう、ということになれば、たいていの人は遅刻しない。
つまり、「この程度のことなら」、「この人なら」、「この会合なら」遅れてもいいと思っている。
ナメているのだ。
時間をナメているということは、人生をナメているということ。
人生をナメたら、いつか大きなしっぺがえしがくる。

「時間にはお金以上の価値がある」
自分の時間はもちろんのこと、他人の時間も大切にする人でありたい
posted by Dr.モーリィー at 06:35| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする