2018年05月05日

No 4606  【自分はなんと幸運なのだろうか】

IMG_0248.jpg

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です


【自分はなんと幸運なのだろうか】

マーク・マイヤーズ氏の心に響く言葉より…



夢を追って人生の探索を続けていると、すでに自分の身に起きた素晴らしい出来事を忘れがちになる。
すでに手に入れているものに感謝することなく、手に入らないものにフラストレーションをてめるのは人間の性(さが)だが、それは間違いだ。

ある知り合いの女性は、非常に扱いにくい上司のもとで働いているが、いつも微笑みを絶やさず、親切で、陽気で、快活だ。
私は彼女が人に対してかみつくような言い方をしたり、機嫌を悪くしているところなど見たことがない。
ある時、どうしていつも笑顔を絶やさず、気分よく仕事をしていられるのかと尋ねてみた。
すると彼女はこう答えた。

息子がガンを宣告されて今治療を受けている。
そういうことがあると、ほかのことはすべて、それとの比較の問題となってくる。
例えば、ストレスがたまるとか、つらいと思えるようなことでも、本当はそれほど大事件ではないとわかってくる。
そんなことは一週間もすれば忘れてしまっている…。

もしあなたが、運の強い人間になりたいと本気で思うなら、これまでに自分がやり遂げてきたことについて真剣に考え、それに感謝できなくてはならない。
だからといって、「夢をかなえることなど考えず、現状に満足して黙って座っている」と言っているのではない。
今まですでに得ているものもたくさんあることに気づき、もしかすると、一夜にして今よりずっとひどい状態になることもあり得るのだということを自覚すれば、人生に対する態度は変わってくるだろうということだ。

もしあなたが自分の持っているものに感謝し、「健康」や「家庭」や「自分の能力や技術」を有り難く思うことができれば、多少運の悪いことが起きたからといって苦悶したり、思うように物事が運ばないからといってあきらめることはないだろう。
反対に、「自分はなんと幸運なのだろうか」と考えることができ、さらに幸運を招くことに意識を集中できるようになるに違いない。

視野を広げ、人生をバランスのとれた見方ができるようになるには、新聞の国際ページを読むのも一つの方法だ。
アフリカ諸国では罪もない人たちが虐殺され、生活を破壊されていることは周知の事実だ。
そういう記事を読んだあとで「買い物に行ったらレジに長い行列ができて待たされた」とか、「仕事で失敗した」、「職場で嫌なことがあった」と言って腹を立てたり嘆いている人がいたら、あなたはどう思うだろうか。
私たちのように繁栄している国に住んでいる平均的な人間がこうむる“つらいこと”など、彼らの悲惨さの比ではない。

『「運をつかむ人」16の習慣―成功する人が実行しているルール』知的生きかた文庫


31292709_1703833089696986_7628323678219927552_n.jpg


朝比奈宗源老師のこんな言葉がある。
『老師の知り合いの僧がある寺に住持していたという。
彼は博打(ばくち)が好きで、村の人の集まりで博打をやっては負けて帰ってくる。
それを見て、老師は 「あいつもやがて死ぬやっちゃ」と独り言をいっていたという』(魂をゆさぶる 禅の名言)より

ひどい仕打ちをうけたり、言動を浴びせられても、その人もやがて死んでしまうのだ、と思えば腹も立たない。
今、20歳を過ぎた大人なら、100年後はほぼ誰も地球上には残っていない。
そう考えるなら、すべてのことは取るに足らない小さなことに思える。

自分はなんと幸運なのだろうか、と気づける人でありたい
posted by Dr.モーリィー at 22:46| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする

No 4605    【美しさへの三つの条件】

IMG_0236.jpg

おいちゃんのお気に入りブログ【人のこころに灯をともす】からの転載です

【美しさへの三つの条件】

渡辺和子氏の心に響く言葉より…



真山美保さんの作品に「泥かぶら」という一人の顔のみにくい子どもの話がある。
みにくいが故に村の人々から嘲(あざけ)られ、子どもたちから石を投げられたり唾をかけられたりした。
それを口惜(くや)しがっておこる少女の心はますます荒(すさ)み、顔はみにくくなる一方だった。

ところがある日のこと、その村に一人の旅の老人が通りかかり、竹の棒をふりまわして怒り狂う泥かぶらに向かって、次の三つのことを守れば村一番の美人になれると教え、自分はまた旅をつづけていくのであった。
その三つのこととは、

いつもにっこりと笑うこと
自分のみにくさを恥じないこと
人の身になって思うこと

であった。
少女の心は激しく動揺するが、美しくなりたい一心でその日から血のにじむような努力がはじめられる。
決心は何度も中断され、あきらめようとするが、また気をとり直してはじめる泥かぶらの顔からはいつしか憎しみが去り、その心はおだやかになってゆく。
明るく気持ちのよい少女は村の人気者となり、子守にお使いにと重宝がられる者となったのであった。

そんなある日、同年輩の娘が人買いに買われてゆくのを知った泥かぶらは、喜んで身代わりとなり連れられてゆく。
道々たのし気に村の様子を話し、自分がかわいがった村の赤子たちについて語る少女の心はいつか狂暴な人買いの心を動かし始めたのであった。
彼は前非を悔い、置手紙を残して立ち去ってゆく。
その手紙には、
「ありがとう。ほとけのように美しい子よ」
と書かれてあった。
そしてその時泥かぶらは、かつて旅の老人が約束した言葉を理解したのだった。

人の顔の美しさというものは目鼻立ちの良さよりもやはり自分が努力してつくってゆく美しさであり、生きている美しさだと思う。
整った顔とか、形のよい顔というのは生まれながらのものかも知れないが、美しい顔というのは、生活の中に生まれ、彫りきざまれて出来たものである。
男女の別なく顔はその人の心の生き方のあらわれでしかない。
年をとっていよ増す美しさ、また素顔の美しさというものを、もっとたいせつにしてゆきたいものである。

ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが
相手にとって非常に価値をもつものだ
ほほえまれたものを豊かにしながら
ほほえんだ人は何も失わない
フラッシュのように瞬間的に消えるが
記憶には永久にとどまる
どんなにお金があっても ほほえみなしには貧しく
いかに貧しくても ほほえみの功徳によって富んでいる
(中略)
もし あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら
不愉快になる代わりに
あなたの方からほほえみかけてごらんなさい
実際 ほほえみを忘れた人ほど
それを必要としている人はいないのだから

この詩は昔ある方から教えていただいたものだが、特に最後の数行はとても美しい真理をあらわしていると思う。
とかく期待したほほえみや、あいさつ、やさしい言葉が得られないと不愉快になり、自分からも相手に「してやるものか」という気持ちになりやすい。
しかしほんとうによく考えてみると、できない相手こそ、それを私から必要としている人なのだということ、ここに思いやりがあり、相手の出方に左右されない主体的な生き方がある。

『美しい人に 新装版―愛はほほえみから』PHP研究所


31318417_1703091833104445_6038526239226986496_n.jpg


渡辺氏は本書の中で「人の身になって思うこと」についてこう書いてある。
『ある日、弟子たちがキリストに向かって、
「先生の説いておられる愛とはどういうことですか」
と尋ねたところ、キリストは、
「自分にしてほしいと思うことを他人にすることだ」
と答えた。
理解されたいと願う人は、理解する人になること、慰められてうれしかったら、他人にもやさしい言葉をかけること、愛された喜びを他人に分けることが愛である』

自分からは何も出さず、「ちょうだい、ちょうだい」とまわりに何かを要求ばかりする人は多い。
自分のことを認めてくれない、誰もやさしい言葉をかけてくれない、誰も誘ってくれない、という「くれない族」だ。

「自分にしてほしいと思うことを他人にすること」
ほほえみと、自分への自信と、人の身になって考えること、を大切にする人でありたい
posted by Dr.モーリィー at 05:56| ちょっと気になる善い言葉 | 更新情報をチェックする